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2009年1月に作成された記事

色々やってくれます

今日は二人の男性クリエーターの弔問を受けた。

午前中に来られたお一人の方は、10年以上前に奥様を亡くされた。彼女は当時まだ30代だったそうだ。私の主人と同じく何の前兆もなく心肺停止での急逝だったとのこと。「丸一年、ショックから立ち直れず僕は使いものになりませんでした」そうおっしゃって、同じ経験をした先輩としてのお話を沢山聞いた。

「供養の仕方は残された遺族が納得できる形ですればいい」という意見が一致した。そして、私達のように朝まで元気な人があっという間に逝ってしまうことだってある。人生にはいつどんな事が起こるかわからないのだから、夫婦である人達はお互いに「自分が死んだらどうして欲しいのか?」という話を沢山しておくべきだ。と、いう意見も一致した。


主人は、「死んだら散骨」「墓には入りたくない」「仏壇は要らない。代わりにお洒落にディスプレイして写真を飾って」「大仰な葬儀は不要。自分らしく音楽で送って欲しい」「BGMにはこの曲を・・」そんなことを言っていた。そして亡くなられた奥様も、同じようにおっしゃっていたそうだ。

ちゃんとそういう話をしておけば、残った人は困らない。迷わない。


午後から来られたもう一人は、私とも主人とも縁の深い建築家のI氏。彼が独立した頃からのお付き合い。我が家も社屋もずっと設計を依頼してきた。そしてクライアントもご紹介させてもらった。硬派なところ、少し頑固なところ、勉強熱心なところ、一心に取り組む姿勢・・・亡き主人に似ている。彼も年を重ねたら、主人のように少し人当たりも穏やかになり益々ステージが高くなりそうな人。葬儀以来ずっと彼なりに深い想いがあったに違いない。

「社長にはどれほどお世話になったか・・・これから恩返しをさせて頂こうと思っていたのに・・・」そう言って仏前で手を合わせる彼。長い時間じっと手を合わせていた。胸に迫るものがあったのだろう。


「I君、これからも応援してますよ。頑張って!」そう主人が言ってるような気がした。そう、姿が見えなくてもこれからいくらでも恩返し出来ますよ!


途中、息子の担任から電話「少し大きな怪我をしたので、病院に連れて行きます。お母様学校までお迎えに来てください」う~ん・・・派手に転んでの膝の怪我、骨折してなきゃいいけど。早々に車で学校に・・。結果は膝の表面を深く削ってしまったので何針か縫って処置をしたらしい。幸い骨折はないが明日からしばらく通院(汗)。膝の怪我は男の子にはつきものだ。もう何回目だろう・・・こんな時でも子ども達は色々とやってくれます。

お二人の男性の訪問を受け今日も沢山話ができた。子どもは元気余って怪我もする。鬱になる暇などない。

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嬉しい出来事

福岡の雪も雨へと変わり、新しい一週間が始まった。子ども達はそれぞれの学校へ元気に登校して行った。

上の娘は寝る前にうがい。そして寝る時もマスク。部屋では加湿器。朝からまたまた丁寧にうがい。そしてマスク装着で登校。なぜにそこまで防備するのか?それは・・・彼女が、5月開催の文化祭でのミュージカルの主役に抜擢されたから。


音楽部(コーラス部)に所属する彼女は、中3になる今年、最後の学園祭。1300人収容の広い講堂でのステージで開催される毎年恒例のミュージカル。今年の出し物は「アニー」。

一年生の時は大道具係りとちょっとだけ脇役。二年生の時はその他大勢の役でちょっと台詞もあった。そして今年!準主役の中からオーディションを受けようと検討している彼女に「いっそ、主役のアニー役を受けてみたら?」と、勧めた。だってダメで元々、宝くじだって買わなきゃ当たらない。オーディションだって受けてみなきゃ通らない。


「ええっ?だって主役は無理やろ?」なんて諦めの早い娘(汗)。
「ママだったら受けてみるね。だって最後だし、主役に選ばれたら出番も多いよ!」ポンと肩を叩いて声をかけた。
「そ・・・そうだけど・・上手な人が沢山いるし・・・」ああ、なんて消極的な娘(涙)。

主役のアニーは、小柄で元気が良さそうな子が向いていること。活舌(かつぜつ)は比較的良いほうなので台詞が良く聞こえると思われること。最近声量が大きくなってきたので大きなステージでも大丈夫だと思われたこと。そんな風に色々な要素を考えてみたところ、受けてみたら案外いい線ゆく可能性があると思ったのだ。


「受けてみようかな?」ある日ボソッと呟いたのを聞き逃さず、「うん、記念になるよきっと。」その気があるうちにやる気にさせた。それから猛練習を始めた彼女。ピアノで音も取ってピッチも確認する。鏡の前で振り付けも付けていた。友人のアドバイスも受けて結構頑張った。「やってる、やってる。」心の中で密かに「いけるかも?」そう思った。主役の倍率は8倍。粒ぞろいのメンバーの中でどれだけ実力を発揮できるのか楽しみにしていた。

私は、毎日主人の仏前で手を合わせ、その日の出来事を報告するのだが、この事もいの一番に報告しておいた。

「Eが、珍しくやる気になって頑張りました。もちろん応援してくれるよね?」

オーディション当日。彼女も手を合わせ・・・
「パパ。私、結構頑張ったけん。今日オーディションです。受かっても受からなくても一生懸命歌ってきますから見守ってね!」

自宅に帰るなり「オーディションで歌っている時、そばにパパがいたような気がした」その言葉を聞いて「良かったね。きっとそばで一緒に歌ってくれていたと思うよ」彼女の肩を撫でながらそう言った。あくる日結果を聞いて二人して主人に報告し、静かに喜んだ・・・。


「アニーってね、孤児なんよ。両親とも死んでしまって悲しいんだけど、みんなに見守られ支えられて、どんなにつらくてもくじけない、明るく元気な女の子なんだよ。」娘も同じように父親を亡くした遺児だ。彼女に投票してくれた部員のみんなには、アニーの姿と重なったのかもしれない。


本番には父親の写真を持って来て欲しいと言う。・・・思春期の娘は一歩成長した。

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枯れない花たち

福岡はこの冬一番の寒気・・・朝から雪です。1月24日。月命日です。今日で主人が亡くなってから二ヶ月が経ちました。まだまだグリーフワークは序盤なのだろうと思います。

おかげさまで毎日色々な方が会いに来て下さいます。

食事も共にしてくださいます。

一緒に泣いてくださいます。

思い出話も沢山してくださいます。

仕事にも少しずつ復帰しています。

2月に入ったらクライアント訪問をはじめます。


祭壇に飾っている花が不思議なことに枯れません。これはかれこれ一ヶ月目です。
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これも三週間目です。
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これも丸二週間経ちました。
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生花なのに・・・まるでプリザーブドフラワー のように枯れないのです。毎朝お線香をあげ主人に朝の挨拶をするのですが、その時話しかけながらお花の水を代えます。

「おはよう。今日は雪だよ。あれから二ヶ月経ったね。そちらも寒いですか?Eが学校から帰ったらお経をあげるって言ってたからね。今日もお花の水、代えようね。」

そんな会話をしながら・・・。花が枯れないのは私の「気」?それとも何かの力(エネルギー)なのでしょうか?

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減った体重は・・・

千葉在住の音楽の同志であるO氏からメールが届いた。

「3月20日の追悼コンサートに来る時は、新たに発見したとんこつラーメンの店に一緒に行こうね!」と、お誘いしたのを受けて・・・。

今すぐにでも飛んでゆきたいという気持ちが溢れたO氏の文面。そして「博多とんこつラーメン」について、彼なりの美味しさ探求結果が綴ってあった。

そのメールを読んでお腹が空いた。それは私にとって素晴らしいこと。人は深い哀しみに直面すると食欲がなくなるものなのです。だから、空腹感がおきたことは回復の兆しでもあるのです。O君ありがとう!


そのメールに返事を書いてみた。

「あなたは、一生懸命働いてます。世の中のために懸命に貢献しています。だから自分のしたいことをして、美味しいもの食べて、音楽三昧して、いつもHappyに過ごしていてください。そうすれば最期の瞬間でも”あいつは幸せだったよなあ・・”そう言ってもらえますし自分もそう思って楽に生きてゆけます。SHINは禁煙もし、健康体だったにも関わらずあっという間に逝ってしまいました。ならば、もっと好きなことさせてあげれば良かった・・そう思います。長生きしてもらうために・・と、本人に我慢させたこと沢山あります。仕事も本人が希望する以上に広がってしまったのかもしれません。私が無理させてしまったかもしれぬと詫びてます。老後のため、将来のため、子どものため、社員のため、妻のため・・・そのどれもが偽善なのかもしれません。今の私には怖いものなど何もありません。死ぬことすら怖くありません。だって、あちらの世界は幸せそうですよ。楽しそうですよ。私もSHINのように何事も一生懸命やっていれば「もう来てもいいよ~」と、SHINがさっと迎えにきてくれる日が来るでしょうか?明日かもしれないし、10年後かもしれないし、20年後かもしれませんが、その日が来るまで再び彼に会える日まで好きなことばかりしてやろう・・・と固く決心しました!」


書き終えてなんだか気持ちがスッキリした。とても正直な自分の気持ちが書けたから。もうすぐ主人の急逝から二ヶ月が経とうとしています。6キロ減った体重は、2キロ戻りました。

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お迎えはジョンレノン

昨日は、昨年11月24日以来はじめて正式に打合せとしてのクライアント訪問。と、言っても福岡市内のドクターとの面会。

そろそろぼちぼちゆるりと・・・ご挨拶を兼ねてクライアント訪問も始めなければ、と思うものの、弔問の方もまだ途切れず、書類ごとや変更ごとも残っている状態なので、本格的な業務復帰とはいかず、県外への出張訪問は来月からでしょうか?


昨日お目にかかったI先生。主人ともいつも楽しく会話をしていた先生だけに「あんなに見事な逝き方なさるなんて、カッコ良すぎますよねえ」と、時折しんみりしながら生前の思い出話をしながら、励ましても頂いた。

「人が死ぬ時は、縁ある人がさっと迎えにくるんだと思います。僕も逝く時はきっと親父が迎えにくるんでしょうねえ」と。

「ならば、主人は誰が迎えに来たんでしょうか?」

「そりゃ、ジョンレノンでしょ?」・・・そう、当たり前のように言い切られました!


そして”小山ルミ・ビートルズを歌う”というビートルズの名曲を日本語で歌ったアルバムをプレゼントしてくださった。昭和40年代に録音され初めて目にするアルバム。相当レアなものだと確信した。

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「ぜひご主人聴いてもらって、その感想も聞きたかったですねえ。」


・・早速私が代わりに聴いてみた。昭和40年代は「サイケ」「アングラ」なんて言葉が流行。この“小山ルミ”さんは、コケティッシュな魅力があり、当時はアイドル的存在だったはず。ボーカルは、パンチとビートが効いている。このアルバムは、タイトルどおり、“ビートルズ”の曲のカヴァー集。雰囲気あります。相当懐かしい話ですが「巨泉・前武のゲバゲバ90分!!」「ドリフ」などに出演していた人。(この話わかる方、同年代です)


収録された全12曲は、千家和也氏による訳詞(作詞)と大胆なアレンジが何よりも印象的。ポールが知ったら驚きそうな、ムード歌謡調の歌詞が斬新な「LET IT BE」や、女性同士の禁断の恋の歌になってしまっている「MICHELLE」、なんだかわけがわからない「COME TOGETHER」「DAY TRIPPER」など、歌詞カードからだけでは、決してビートルズだと思えないのがミソ。

限定再発版でデジタルリマスタリング。オリジナルW紙ジャケ復刻版仕様!

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本当にあった話

以前にもこのブログで紹介したかもしれない「象の背中」というタイトルのDVD。

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秋元康原作の感動ファンタジーのアニメ化DVD。命の終わりを告げられた父親と残される家族との限られた時間が、象のキャラクターと切ないBGMで綴られたもの。

ご覧のように私の家と全く同じ家族4人構成。しかもお父さんは死ぬにはまだまだ若いのです。

このDVD、主人が亡くなる二ヶ月前に、何を思ったかAMAZONで私が購入してリビングのテレビ横に置いていた。

「これ、いつ見ると?今すぐ見ないなら収納しとけば?」そう言われて、棚にしまってあったもの。

亡くなった後、「そういえば・・・」と引っ張り出してきたものの、見る勇気がなかった。


ようやく決心して一週間前に初めて見た。「旅立つ日」という第一編から、大泣きです。あまりにストーリーが似すぎています。幼い子ども二人と奥さんを残して、お父さんが死んでしまう話です。これはまさに私自身に本当にあった話なのです。

挿入歌を聴きながら「この歌はE君に歌ってもらいたい」そう思いました。我がままを言わせてもらってE君に録音を頼みました。3月20日の追悼コンサートでは、この映像とE君の歌を・・・。


旅立つ日

ある朝 目覚めたら 神が待ってた
命に終わりがくると そっと知らされた
どうして僕だけが旅立つのか
運命のさざなみに 声は届かない
1番近くの大事な人よ
幸せだったか それが気がかり

もしも僕がいなくなったら 最初の夜だけ泣いてくれ
君と僕が過ごしたときを 思い出しながら見送って

いつかは誰もみな 迎えが来ると 
わかっていたはずなのに 人ごとのようで 
夕日がいつもより美しくて
知らぬ間にあふれ出す 感謝の気持ち

今まで一緒に歩いた人よ 
残してゆくこと許してほしい
君と会えて幸せだった 
朝の空 見上げ微笑んで

僕はきっと 日差しになって 
見守っているよ君のこと

もしも僕がいなくなったら 最初の夜だけ泣いてくれ
君と僕が過ごしたときを 思い出しながら見送って

思い出しながら見送って


・・・どうしてあの時、こんな内容のDVDを買ってしまったのか自分でもわかりません。

今でも不思議です。

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ボーカル特訓

中学生の娘は、音楽部に所属している。主に合唱コンクールでの上位入賞を目指して頑張っているところだが、年一回の学園祭では、ミュージカルに挑戦している。今年5月の学園祭でのお題目は「アニー」らしい・・・。


木曜日にオーディションがあるとかで、この土日は同じクラブの彼女の友人が我が家にやってきた。防音されたスタジオに二人こもって何やら特訓している様子。主役を射止めるか、脇役なのか。どちらでも、何の役でも構わない。一生懸命やることに意味がある。


「パパが生きていたら、きっとオーディション用に練習音源作ってくれたよねえ。」ぽつんと娘がつぶやいた・・。


そう・・・仕事でもプライベートでも主人は手を抜かず精一杯努力して、人の役に立つことをした人。たとえ、娘の学園祭のネタであろうが、息子の文化祭の出し物であろうが・・・


「そこまで凝らなくてもいいんじゃないの?」はじめの頃は、私もそう言っていたのだが、あの人の辞書には「手抜き」という三文字は存在しないということが理解できてからは、決してその台詞を言ってしまうことはなくなった。


中学生の合唱コンクールの自由曲では、音取り練習に役にたつべく難解なコーラスパートを全て打ち込んでCDにしてクラブ活動に貢献した。そこまでする親はあまりいない・・・と私は思っていたけども、主人にとっては「これが自分の出来る応援の方法」と思っていた様子。


そんな縁の下の力持ちをなくした今、応援してくれる友人たちに支えられてオーディションに合格すべく練習に励むのでした。

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ついに・・・

毎日少しずつ時間は進みます。グリーフワークの真っ只中にいる私達家族は、多くの人達に支えられてようやく一日一日を過ごしています。

よくよく考えれば、毎日どこかで葬儀があるように、新しい命の誕生もあれば、人の死も身近なことと言えるのかもしれません。日本グリーフケア協会という団体もあるようです。


主人を亡くして以来、友人や子ども達の夢にはよく出てくるのに、どうして、私の夢には出て来てくれないのか?不思議でした。私自身が拒否しているからなのか?故人が思い出さないようにしてくれているのか・・・


でも、ついに・・・ついに・・・夕べ夢に出てきてくれました。それも生き返った人として・・・。


自宅のリビングで、目の前に横たわる冷たくなった主人の頬を撫でていたら、少しずつ温かくなってきたのです。「あれ?体温が戻ってきた」そう感じていると、体が動き始めるではありませんか!もぞもぞと・・・驚いていると「ふ〜っ」っと大きく呼吸を一つしたかと思うと、続けて自発呼吸を始めるのです。そしてみるみる血色が良くなり手足を動かし目を開けるのです。

「こんな・・・こんな事ってあるんだ・・・まさか・・・まさか・・・」唖然とする私。5分くらいかけて自分で体を動かしては起きようとします。背中を支えて起こす手伝いをする私。そこで声が聞こえました。


「う〜ん。ものすごく長い時間寝た。ああ・・一度死んでしまったから心配しただろう?ごめんごめん・・・」ようやくの思いで座ったまま私の顔を見て、少しはにかみ笑いをしながらはっきりそう言いました。


「こんなこと・・・本当にあるんだ・・・」涙が溢れて私は言葉が出ません。一生懸命主人の髪や背中を撫でました。生前と同じ髪の匂いがしました。


「あれからずっと君のそばにいて、話しかけていたんだけどね。ああ・・それにしても長く寝すぎて腰が痛いなあ・・」そうも言いました。両手で腰を一生懸命さすりました。体も元通り温かくなってました。


「生き返ってくれてありがとう・・・これから一生介護することになっても良いから生きていて」・・・・泣きながらそう私が言うと

「みんなを悲しませてしまって辛かったよ。でもこれからはまた、これまでと変わらない生活になるよ。ずっと一緒にいるから。」嬉しくて嬉しくてうなずきながら、言葉にならない喜びで胸がいっぱいになりました。


どの位時間が経ったのでしょうか?嬉し泣きで嗚咽しながら目が覚めました。私の心臓はあまりの出来事にドキドキしており、夢なのか現実なのかわからないような不思議な時間でした。ベッドの枕は涙で濡れてました。


夢の中で彼が言った言葉の通り、ずっとそばにいてくれて、これまでと変わらない生活になればいいな・・・と心から思った週末の朝でした。

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止まった時間

今日は、午後から出社しました。


自宅の亡き主人の祭壇の前で、一日中座って音楽を聴いたり、弔問の方とお話をする分にはずいぶん慣れてきたところではありますが、通常モードの人たちと日常会話をしたり、仕事の打ち合わせをすることに、少し努力を要するのです。何がどう変わったか?は正直よくわからないのですが、何かが違うのです。

たぶん、精神的にはまだリハビリの途中なのだろうと思います。


これまで最前線で仕事をやってきたはずの自分が、これまでの生活に戻ることに、こんなに労力を要すことになろうとは、思いもしませんでした。きっと皇室の雅子様もこんな感じなのではないかしら?と、想像します。

無理は禁物だと思います。


さてさて、それでも前に進まなければなりません。会社では大事な会議をひとつこなし、銀行さんとも打ち合わせをしました。


ふと、前・社長のデスクを見ると、カレンダーは11月のまま…そう、彼のスケジュールはここで止まっています。この世での人生の終焉を迎えてしまった人の事実をここに確認してしまいました。

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今日は2009年の新しいカレンダーが納品されました!毎年自分でギターの写真を撮影しては、デザインして仕上げていた好評のカレンダーです。今年のカレンダーの写真も亡くなる前に撮り終えていたのです。そんな、遺作となったカレンダー・・・

早速同じ場所に置きました。


「ほら、ゆっくりしている間に、こちらでは2009年です。あなたが撮影した写真…仕上がってきましたよ。」

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これからも毎月ちゃんと新しい月に交換しようと思います。


なかなか良い写真です。最後の貴重なカレンダーです。

ご希望の方にはお譲りします。

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技術の粋

今日は、3月20日に開催予定の「追悼コンサート」の打ち合わせをした。

音楽監督にY.Kさん。音響担当のY.Tさん。ステージ周りのサポート役にF.Hさん。実行委員会のメンバーとしてAさん、Iさん。複数の出演バンドと子ども達、そして空中再生の出演順を決めたり演出の打ち合わせをした。故人と縁のあるミュージシャン達が集い、想いの深いコンサートになりそうです。

その後、スタジオで故人の録音データを探していただいた。本人の歌声がMACに録音されているので、本番ではその音声を流して、残りのパートを生演奏するスタイルを取ってみようか?という試みなのです。


『アンフォゲッタブル(Unforgettable)』・・・1951年にリリースされたナット・キング・コールのヒット曲です。ナット・キング・コールの死後、娘のナタリーコールが、この曲をオーバーダビングによる父の歌声とのデュエット版を1991年にリリースしたのです。生前に録音された父ナット・キング・コールの歌声の上から、娘ナタリーが自分の歌声を重ねることで、まるで隣で歌っているかのようなデュエットソングが出来上がったのですが、今回のコンサートでもこの手法に近いことをやってみようという計画です。

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ついでに、本人が歌っているライブ映像も流して、その動きに合わせて音もその場で再生してみようか?など・・・

かなりの技術を要する計画なのですが、ざっと周りを見渡せば、そんな事が出来るメンバーが揃っていらっしゃる!ありがたいことに・・・こういう楽しみもありながら、過ごすのも悪くありません。


本人は今頃、どこでこの計画を聞いているのでしょうか?

「こんなに面倒なことさせないで、いっそ降りてきて一緒に歌ったらどうですか?」

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思い出まとめ

私は夫婦で起業して15年間会社を経営してきました。社員はあの日から本当に粛々と頑張ってくれています。急に前社長が亡くなってしまったのですから、それはそれは大変な日々だったに違いありません。

取引先各社、クライアントへの連絡、通夜、葬儀の受付、段取り、お香典の管理、お返しの準備、漏れのないように弔問の方のリスト作成・・・そして日常の業務が滞らないようにすぐに業務再開。

私が呆然としている間にも、毎日通常通り会社を運営してくれてきた社員達に改めて感謝する今日この頃です。


今日、追悼BOOKの色校正があがってきた。皆さまからのメッセージを印刷して故人のメモリアルBOOKを作ろうと思い立ってのこと。それぞれの文章には、大きな「愛」が込められていて感動します。

DVDも完成した。生前のライブ映像、そして学生時代に歌った音源も入れた。自宅にあった全ての録画テープを映像クリエーターのUさんに預けた。その中から笑顔のシーンを取り出す作業はとても辛いものだったと思うのです。本当に感動的な仕上がりになりました。

それらを入れるオリジナルの箱も作った。英文の座右の銘をプリントしたリボンも作った。私の母は「真吾君のためにそんなに一生懸命になって・・・少し休みなさい」と言うのです。


でも、どっぷりと思い出に浸っていたり、写真を整理したり、生きていた頃の映像を見たりしていると会話ができるような気がするのです。こうやって形にすることに少しずつ取り組んでいると、自分の気持ちがひとつひとつ前に進んでゆくような気がするし、「彼の業績や生き様を皆さまに伝えたい」そんな気持ちでもあるのです。自己満足なのかもしれないし、誰にも見てもらわなくてもいいのかもしれないのですが。きっとこれは、私にとっての大事なカウンセリングタイムでもあるのかもしれない・・・そんな風に思えます。


羨ましいことに子ども達の夢には毎日出てくるらしいのです。それも食事をしたり、笑ったり、散歩をしたり、お風呂に入ったり・・・一緒に生活をしているそのままのシーンを二人とも毎日見るという。
だから二人して「パパは生きている時とおんなじように、毎日一緒に暮らしているよ。な~んにも変わらないよ。」そんなことを言う。息子に至っては「パパは色々なところに来るよ。僕が学校に行くときは一緒に電車に乗ってくるし、家に帰ったらリビングにいるし、時々はスタジオにもいるし、寝るときはベッドに来るよ。」ピュアな感性でそんなことを感じているらしい。何故か私の夢には未だ一度も出てきてくれないのに・・・


写真の整理をしていて気付いたこと。亡き主人との2ショット写真がほとんど無い(汗)

息子と・・・
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娘と・・・
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そして・・・やっと見つけた私との最近の2ショット。
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やっぱりステージでの写真だけ。もっと二人だけで写真撮っておけば良かったなあ・・。でもいつも写す立場だった人なので無理もないかなあ・・・そういえばラブレターももらったこと無いなあ・・・でも、何か私への彼からのメッセージがないかなあ?と、携帯電話の私へのメール履歴を見たら・・・ありました!


「夕べはごめん。僕が言いすぎました。」

彼らしいメールのその短い文章の中に「そんなこともあったっけ?」と、出来の悪い妻に対しても、こんな風に謝罪してくれた優しさを思い出して、少し嬉しく・・・そして切なくなりました。

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グリーフケア

「グリーフワーク」という言葉をご存知ですか?

人は死別などによって愛する人を失うと、大きな悲しみである「悲嘆(GRIEF)」を感じ、長期に渡って特別な精神の状態の変化を経ていきます。遺族が体験し、乗り越えなければいけないこの悲嘆のプロセスを「グリーフワーク」と言うそうです。


愛する人がもうこの世にはいないということを実感することは、人生のなかで最もつらい出来事のひとつだと思います。大切な人を失ったあとは思い切りその死を悲しむこと。気持ちの整理がつくまでは、しばらく思う存分泣き暮らすことも必要なのだそうです。

◆一般的に「グリーフワーク」は次のようなプロセスを経ます。

1. ショック期
最初、愛する人の死に接した時、人は茫然として無感覚の状態になる。一見冷静に受け止めているように見えるが、これは現実感を喪失した状態。死があまりに大きなショックであるため、はっきりした反応が現れない。また、正常な判断ができずに、パニック状態になることもある。

2. 喪失期
死を現実に受けと止め始めるが、まだ充分に受けとめられない段階。号泣や怒り・敵意、自責感などの強い感情が、次々と繰り返し表れる。故人がまだ生きているように思ったり、そう振舞うことも。この段階では、しっかり泣くことが重要。


3. 閉じこもり期
死を受け止めることができた段階、そのために従来の自分の価値観や生活が意味を失って、うつ状態に陥り、自分が存在していないような無気力な状態になる。自責感に襲われることも特徴。

4. 再生期
故人の死を乗り越えて、新たな自分、新たな社会関係を築いていく時期。積極的に他人と関われるようになる。


「グリーフワーク」全体の期間は、配偶者の死別の場合で1~2年、子供の死別の場合は2~5年ほどと言われています。絶望を十分に経験しないでいると、本人は立ち直ったつもりでも、大切な人の死を心の底でいつまでも引きずってしまうそうです。そして、数年たってから強い抑うつが襲いかかり、うつ病になってしまうこともあるそうです。だから「喪」は、残された人の心のリハビリに必要な期間だといえそうです。

日本の社会環境は、悲しみを充分に表現することを良しとしていません。周囲の人も、悲しまないように慰めたり励ましたりしますが、悲しみを表現するようにはサポートしません。でも、折に触れしっかり泣くことと、遺族の感情や行動を認めながら話を聞いてあげることはとても大事なことだと、今回の実体験で思いました。


私のこれからの残りの人生で、同じ体験をした人達に「グリーフケア」のアドバイスができたり、哀しみを共有してあげられるような時間が持てたらいいな・・・と心のどこかで思っています。もちろん、今の私には自分と子ども達、そして会社のことで精一杯ですが、もう少し心に余裕が持てる時がやってきたら・・・。

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私に届く音楽たち

昨日は主人が生前デュオで歌っていたYちゃんから、そして今朝は音楽プロデューサーのY・Kさんから、それぞれ一曲の歌が届いた。

いづれも、主人が亡くなる前に手がけたというその一曲は、その内容が本当に偶然にも、私にとってオーバーラップするような曲。「始祖の船」「ひとつの家族」・・・それぞれに命名された曲たちは、私の心の琴線に触れる歌。

他にも「今、みゆきさんが聴いたら驚いて腰が抜けるかも?」・・と、メールが来たご縁ある某アーティストの曲も、私のために書かれたような曲。でもどれもこれも、こうなる前に書かれた曲。

書かされたのか、書きたくなったのか・・・本人たちもわからないような不思議。


主を失った録音スタジオのMACと機材たちを、冒頭のY.Kさんと、これまた偶然にも20年ぶりに再会した音響オペレーターでもあるY.Tさんが見てくださった。


「真吾さんのMACをさわらせて頂いて、嬉しく、切なく感じました。誰も手を触れていない宝のようなMACをあつかわせて頂いて、御礼申し上げます。ありがとうございました。今後の制作の折には自分の持てるものを精一杯出して、みゆきさんの不安を少しでも拭えたらと思います。」

そう書かれたメールを今朝受け取りホッとしたと同時に、デザイン・音楽制作・・・そのどちらもがプロフェッショナルだった主を失った部分を埋めるべく、Symphoniaというブランドをこれからも守るべく、遺志を繋ぎそのたすきをリレーすべく、全力で応援してくださる仲間たちの強力な支援を受けられていることに心から感謝する日々です。


昨日から子ども達は新学期が始まり登校しています。6時半起床。父親の仏前に「パパ、行ってきます!」そう元気に挨拶して学校に行く姿は、以前と変わらないようにも見えます。


心の隙間は外からは見えないもの。人はみなそれぞれに深い想いを抱えて生きている。そんなことはわかっていたはずなのに、こうなってみると・・・実際には浅い思いやりの気持ちしかこれまでの自分にはなかったように思います。本当の心模様はやはり経験を積んでこそわかるものなのかもしれません。


「まだまだこの世の修行が足りないからこそ、生かされている私」であることを、今日も明日も肝に銘じて暮らしてゆかなければ主人に笑われますね。

煩雑な書類ごとはようやく峠を越え、あと一ヶ月もすれば、通常の生活にシフトできるのかもしれません。

でも「あんまり頑張りすぎるなよ・・・」そんな彼の声も聞こえてくる今日この頃です。

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訃報の連絡行き届かず

急に人が亡くなると、誰にその訃報を知らせるのか?リスト作りも急いでやらねばならず、親族や近くの友人などは思い浮かぶものの、案外出身大学関係などの方にまで本当に行き届かないものだ。

大学の音楽サークル仲間にだけは「訃報」の連絡は行き届き、通夜や葬儀、そして皆さんで暮れにお参りにも来てくださった。

ところが、同じ大学とはいえ学部の方には連絡が行き届いてなかったことに今頃気付いた。千葉大の教育学部、美術科であること以外はほとんどの情報を知らず、はてどうやってお知らせしようか?と思っていたところ後輩であるEさんから「アトリエ開設」のお知らせと年賀状が届いた。


よくよく考えれば大きな総合大学だ。クラブ活動のメンバーだって複数の学部出身で構成されている。どうして出身学部の友人に連絡が漏れたのか?申し訳ない気持ちになった。


Eさんからの年賀状を見て、急ぎ主人が亡くなってしまったことをEさんに連絡せねば!・・・と。大学で教鞭を取っていらっしゃることがわかり、急ぎ大学に電話を入れた。

Eさんは電話口で明るく

「いやあ、奥さまとは初めてお話しますね。亀山さんとは兄弟のように仲良く大学に通った者です。亀山もご家族の皆さんもお元気ですか?」


「・・・主人に代わります・・・と、言いたいところですが、実は・・・亀山は昨年11月24日に亡くなりました」


「えっ?・・・・今なんと?・・・」

絶句なさり、しばらく沈黙が続いた。言葉にならない言葉で会話を続けようとするが、明らかにEさんは動揺されているのが分かった。11月末に多くの方に連絡した時のように、改めて亡くなった時の状況をお伝えした。


学部の皆さまに連絡が遅くなってしまったことを詫びて、葬儀も終え、もうじき正式な四十九日が来ることを伝えた。そして今の家族の状況やこれからのことをお話した。


Eさんは、涙声で「信じられない」といったご様子だったが、大学の関係者には自分から連絡を入れることを約束してくださった。大学の同じ学部の皆さま方へ・・・訃報の連絡が本当に遅くなり申し訳ありませんでした。


私の中の時間がまたあの時に戻った様な感じになり、心底落ち込んで小一時間寝込んでしまった。

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7年前の11月24日

今日は、このアルバムを終日聴いていた。と、いうより無性に聴きたくなったと言った方が正確かもしれない。


PAT METHENY(パットメセニー)・・・私の大好きなギタリストの一人。哀愁のあるギターの音色とコードの使い方に惹かれて若い頃から良く聴いていた。そんな彼がアコースティックギター一本で演奏するアルバム「ONE QUIET NIGHT」。

Pat

2001年11月24日。僕はホームスタジオで、レコーダーの電源を入れ、その晩はギターを弾いて過ごした。当時、僕は何年も前に「ザ・サーチ」という曲の中で取り入れたナッシュビルの低音のチューニングに再び注目していて、手に入れたばかりのバリトンギターでそれを試してみたんだ。カナダ人リンダ・マンツアー作の素晴らしい楽器と類まれなチューニングとが重なり、今までにない音色が誕生しただけでなく、普段の僕ならば思いもよらないような演奏方法を試してみようという気持ちにさせられた。僕はシンプルに、ごく静かに、純粋に自分のためだけにギターを弾き、それに浸った。

この文章はアルバムのライナーノーツに自身で書いたコピーだ。


このアルバムは、彼が書いているように11月24日に録音されたもの。年数こそ違えども、その11月24日は偶然にも主人の命日。何故このアルバムを聴きたくなったのかよくわからないが、今日は彼の音楽に癒される日となった。

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「天国のお父さんへ」

子ども達はまだ冬休みです。小2の息子の学校の冬休みの宿題のひとつに「作文」があります。「今年はやっぱり、パパのことを書こうかな・・・」そう言って、今日はいつもの作文下書き作戦に突入した模様。

彼の作文作りは、大き目の付箋を用意して、その一枚一枚に、思ったことを短く書き綴ることから始まります。一枚目の付箋には「お父さんはぼくのえをほめてくれた」そして二枚目には「そくしだったって。くるしくなかった?」などと、思いつくままに文章を付箋に書きとめてゆきます。少し前に追悼BOOKのために寄稿したので、その文章も織り交ぜながら、彼の作業は続きます。


そして、それらをテーブルの上に並べて、順番を決めます。色々試行錯誤して入れ替えてみたり、足りない言葉はまた書き足したり・・・テーブルに並んだ付箋を順次下書き用の原稿用紙に書き起こしてゆきます。3枚目に入ったら文字数をカウントして、ちょうど入りきれるように調整するようです。

30分ほどして、「お母さん、下書きが出来たから聞いて。」そう、毎回こうやって清書の前には声に出して読むのです。


父親の仏前に正座し、遺影に向かってそれは始まりました。タイトルからすると死んでしまった自分の父親への手紙のようです。


「天国のお父さんへ」
2年 かめ山 きょうご

ぼくはあの日、何がおこったのかわからなかった。ゆめを見ているのかと思った。

それは、きょ年の11月24日のことだった。朝、目がさめたら、お母さんがぼくをだいて「パパがしんじゃった。」ってなきながら言ったんだ。心ぞうのどうみゃくがはれつして、そくしだったんだってね。くるしくなかった?

お父さんはぼくに、九九をロックンロールで教えてくれたね。ぼくの絵をほめてくれたね。人にやさしいところはいいところだって言ってくれたね。うれしかったよ。

これからは、かなしいこと、くるしいことがあっても、お父さんがささえてくれるよね。うれしいこと、楽しいことがあった時も、もちろん、ぼくたちといっしょだよ。

お母さんは「パパは、とってもすごい人だったから、先に行って、むこうですることがあるから早くよばれたんだよ。」って。だけど、ぼくは、お父さんが大すきだったから、もっといっしょにあそんだり、ビートルズも教えてほしかった。
とってもさみしくてかなしいけど、がまんします。

おねえちゃんもぼくも、学校に行っています。「人のやくに立つために、べん強するんだよ。」そう言っていたお父さんのことばもわすれません。やくそくも、ちゃんとまもります。

ぼくは、お父さんのような人になりたいと思っています。だから、天国のお父さん。いつもぼくたちといっしょにいてください。

ぼくは、今までも、そしてこれからも、お父さんの子どもであることをほこりに思っています。ありがとう、お父さん。


・・・まだ8歳の息子は、ゆっくりゆっくり自分の父親に語りかけるように読んでゆきます。途中からは涙声になりました。後半は我慢できずに嗚咽しながら文章も途切れ途切れになります。それでもやめずに読んでゆきます。

彼がどんな気持ちでこの作文を書いたのか、どれほど小さな胸を痛めているのか・・息子の後ろに座って、その声を聞いていた私の頬には、胸が熱くなり涙がこぼれていました。


最後の「ありがとう、お父さん。」その言葉は原稿用紙から顔を上げ、遺影に向かって声をかけていました。

そして・・・全部読み終えると、くるりと振り返り私の胸に飛び込んできました。堪えていた悲しみが堰を切って溢れ出したように号泣する息子。

「君にこんなに悲しい作文を書かせることになるなんて、パパひどいよね・・・」二人して抱き合って私も声を出して泣きました。

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聴衆は四名様

2008年から2009年へ・・・たったひとつ数が増えただけですが、感慨深い新年のはじめです。

大晦日には同級生のK君が午前中から来てくれて、スタジオの片付けを手伝ってくれました。男手がなくなった今、力仕事を引き受けてくれる人がいることは本当に助かります。

午後から「追悼BOOK」の校正をし、夜には長年の友人である立花洋一君がやってきました。


福岡はもちろん、国内でも有数のセンス溢れるプロのJAZZピアニストです。繊細なタッチはピアノそのものの良さを引き出し、正確なリズムの中にグルーブ感がありダイナミクス溢れる素晴らしいピアノを弾きます。


私たちは20代の頃からの付き合いで、若い頃は夜な夜な一緒に作曲したり、編曲したり、シンセサイザーを持ち込んだブライダルなどで演奏していました。同志と言ってもいいでしょう。お互いに仕事が早いのが特徴でしたから、ウマがあうというか、相手の良いところも欠点も十分理解し合った信頼関係があります。


そんな彼が大晦日の夜に我が家にやってきました。主人を亡くし気落ちしている私を、きっと彼なりに励まそうと、来てくれたのだと思います。


ひとしきり話をし・・・時刻は23時55分。息子が「お母さん、みんなで一緒に新しい年を迎えようよ」と、私たちを二階に誘います。立花氏と私は一緒にリビングに行きました。そんな彼の手には何故か一枚のコード譜が・・・

テレビでは除夜の鐘が鳴り、いよいよカウントダウン。5.4.3.2.1…「明けましておめでとうございます」そうアナウンサーの声が聞こえたかと思ったその瞬間でした。

リビングのピアノにいつの間にか座っていた彼がピアノを弾き始めたのです。

静かで美しい音色でした。一音一音を大事に弾いています。曲はJ,S.BachのJesu,joy of man's desiring.(主よ人の望みの喜びよ)。

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二人の子ども達と私の母、そして私・・・4人してピアノの周りに座りました。2008年の辛い出来事を癒すように、ゆったりと心を込めて弾いてくれている彼の優しさが嬉しくて、涙がこぼれました。とても暖かく贅沢な時間でした。


10分ほどの素晴らしい演奏が終わり、息子も娘も母も私も感謝の気持ちでいっぱいの拍手を送りました。・・・どこからか白い羽根がふわふわと降りてきて、彼の肩にとまりました。

「僕は、今日ほどピアノ弾きで良かったと思ったことはありません」その笑顔にまた感動しました。ありがとう。

それからというもの、何をどう思ったのか、二人して突然、作品創りモードに突入してしまいました(汗)「SHINさんに捧げる曲を書こう!」そう彼が言ったかと思いきや、私からイメージを聞き出してはビートを決め、ものすごいスピードで作曲してゆきます。しかも、ピアノを弾かずに譜面に書いてゆくのです。驚きです!

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頭の中でどんどん音楽が出来るらしく、コードもメロディもハーモニーもリズムも溢れんばかりに沸いてくるような作り方。サラサラと楽譜に書き起こしては「はい!次のイメージ!」

出来上がった曲に私がタイトルをつけ、次の曲のコンセプトを伝える・・・そんなこんなが続いて、とうとう夜が明けました。完成した曲は驚くなかれ8曲!!!!!


これを全部録音して追悼CDにする話、そのユニットを作る話、ユニット名を命名しテーマ曲まで一晩で書き上げた凄い人。太宰府のNというお店で空中再生とのジョイントライブをする計画まで飛び出して一体一晩でどこまで広がるのでしょうか?


・・で、楽器を使わずに作ったので、この譜面からはおおよその雰囲気しか分かりません。
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「あっ、そうだ。一度全部弾きましょうか?みゆきさん、あのコード譜だけだとどんな感じか分かりにくいから歌詞が書けないでしょう?」はい・・・全くもって・・・(汗)スタジオに移動して完成した曲を全部弾いてくれました。お見事!時計を見ると、元旦の朝9時でございました。とうとう徹夜でした(汗)。大晦日の徹夜は何十年ぶりでしょう。


友人が主人の食卓席に座って元旦にお雑煮を食べる姿は、なんだかとっても不思議な光景でした。そして元旦早々こんなことになるなんて…私を心配してくださっている皆さまが、今このブログを読みながら仰天されている様子、よ~くわかります。


「2008年はそれはそれは大変な年でございましたが、これからも、私の人生は、相当とんでもないことになる運命にあるようでございます。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。」

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